>>11読んで、ふと思い出した。
うちの地元は田舎だけど太平洋に面していて、太平洋戦争末期には米艦載機が飛来したそうだ。
ちょうどそのころ、予科練の生徒の方達が軍事施設整備のために船舶で海上を移動中に
航空攻撃を受けて多くの犠牲者を出した。
戦後になり地元に慰霊碑と小さな資料館が建てられたが、
いつの頃からか、そこは地元で有名な心霊スポットとして様々な噂が語られるようになった。
噂については省略するけど、俺の弟が霊感もち2人とそこを訪れた時に
2人とも「門のところに霊がいる」とのこと。弟がどんな様子なのか聞いたところ
揃ってその2人が同時に気をつけ(不動の姿勢)のポーズをとったそうだ。
資料館はその後移転し、そのような話も聞かなくなった。
地元の子供達が、大声で叫びながらお化けの真似をして遊んでいるのを見た。
その叫び声が気になった客が宿の主人に聞いてみると
「ああ、この近くの森の奥では、ああ叫ぶお化けが出るんですよ」とのこと。
もちろん皆日本語などまったく分からない。
タオルやぼろ布を被り、子供達は「グンソウドノー!!」と叫んでいた。
南方の原住民調査のためにかつての激戦地ニューギニアの山中に入った。
そこで原住民と仲良くなって、一緒に生活しているうちに、
日没後は彼らが山の中に決して入ろうとしないことに、西丸氏は気づいた。
「なぜ、夜は山に入らない? 危険な野獣とかいるのか?」との問いに、
原住民は「野獣はともかく、とにかく気味が悪い。
姿は見えないけど、あちこちから意味不明の人の言葉が聞こえる。
でも、人の姿はやっぱり見えない。
白骨はいっぱいあるから、あれはその白骨の精霊だと思う。
夜の山は生きた人が入る場所ではない」との応え。
「意味不明の言葉ってどんな?」と西丸氏が問うたところ、原住民の応えは
「『ガヌバレ』『シカリシロ』と聞こえる。私たちの言葉ではない」……だったそうだ。
西丸氏は「さもありなん」と感じ入ったそうな。
私が、色々と相談をしている寺の住職は、グアムやサイパン等の太平洋戦争の
激戦地の戦場跡を慰霊のために幾度も訪れています。
その時のエピソードをひとつ・・・・。
グアム島・・・某ホテル・・・深夜・・・
住職が、寝室で休んでいるとき、廊下の向こうから、多数の兵隊が行進してくる軍靴の音が・・・。
そして、その行進は、住職の部屋の前で止まり、部屋の中に入ってきたそうです。
「自分は、福島県出身の〇〇一等兵であります。
この度は、戦友一同共に祖国日本への帰還を願いに参りました」
・・・・と、
隊列の中から一人が前へ出て住職に向かって言ったそうです。
そこで、住職が般若心教境を唱えると、彼らは、その般若心教に乗って日本へ帰還したとのこと。
同じように、戦死したアメリカ兵も住職の元へ現れて、
住職の唱える日本語の般若心境に乗ってアメリカへ帰還していったとのことです。
宗教、宗派は違っても、宗教は全ての人・霊の幸福のために存在することをこのことは示しているような気がします。
サイパンというと、太平洋戦争の大激戦地で、日米両軍で数万の犠牲者が出た所。
このマ○○○○島は、その最前線にあって、サイパン本島からの救援もなく、脱出も出来ず、
最後には弾薬も尽きて、全将兵が刀を持って突撃して、全滅したといわれてます。
この話は、サイパンの現地係員の経験のある先輩の体験談です。
夕方、某ビーチを歩いていると、海岸線後方の木々の茂みの中から、
「突撃ィー!」
という声が聞こえたかと思うと、何百人もの旧日本兵が・・・、
「うわぁーー」と、海岸線に向かって突撃してきたそうです。
次の瞬間、
ダダダダダダダァ、
トガァーン!
機銃や大砲の音が鳴り響き、兵士達は次々と倒れていき、
あっという間に、先輩の周りは兵士の死体で埋め尽くされたそうです。
しばらくすると、機銃や大砲の音も止んで、あたりが静かになると
倒れていた日本兵達はスゥーと消え・・・、
次の瞬間、再び、
「突撃ィー!」
という声が聞こえたかと思うと、何百人もの旧日本兵が、
「うわぁーー」と、
海岸線に向かって・・・・・・。
その時、ビーチには、日本からの観光客も沢山いたそうですが、
ほとんどの人は、何も見えていないのか、そのまま遊んでたそうです。
ただ、先輩も含めて、幾つかのグループは、真っ青な顔をして、ビーチから逃げ出したそうです。
私は、私が手配した団体旅行の出迎えのために国際空港にいました。
私が、到着ロビーで待っていると・・・、
たくさんの10代後半~20代位の女の子たちが、ワイワイ騒ぎながら出てきます。
話の様子ではサイパンに行ってみたい。
その彼女たちが、私の真横を通った、その瞬間、急に背筋が、凍りつくような悪寒を感じて振り向きました。
彼女たちを見ると、背中に、血だらけの旧日本軍の兵士を一人ずつ背負っているんです。
「あの子達、マ○○○○島で・・・・・・・。」
そのまま、呆然として、彼女たちの背中の日本兵を見ていると、1人の日本兵が振り向いたんです。
満ち足りたような笑顔を見せて・・・・・・・。
「あー、兵隊さん達、日本に帰りたかったんだ。」
彼女たちには悪いけど、遠い島で亡くなった日本兵が、帰国できたのは良かったのかも・・・・。
少し切ない気持ちになりました。
弾薬ネタと言えば、愛知県伊良子岬にあった旧陸軍の射場の話。
其処には連絡用のトロッコが敷設され、射爆場の監的壕と要塞砲の連絡を行っていた。
ある日のこと、一トン爆弾用の新型爆薬のテストが行われることになり、板橋から火工長
がやってきた。
指揮所にて最終確認を受け、監的壕の前に設置された爆弾に向けて火工長以下5名の
作業員がトロッコに乗って出発した。
火工長は軍服を着ており、残りは作業服に麦わら帽という出で立ちだった。
遅れて、見学者を乗せたトロッコが出発した。
そのトロッコが走っていたとき、突然レールに稲妻のような閃光が走り、試験用の爆弾が
爆発した。
勿論、先に出発した火工長と作業員は粉微塵になって吹っ飛んだ。
しかし、作業員の遺体の一部は其処此処にあるのに、火工長の遺体だけが存在しない。
捜索隊は必死になって探した。
ふとコンクリートの壁に目をやると、人間の形をした影が浮き上がってきている。
コンクリートの合わせ目に、軍服の生地のような糸屑が霜降りの如く細く一面に挟まり込
んでいた。
火工長は、爆風で吹き飛ばされた拍子に肉体と軍服を壁に圧入されてしまったのだ。
その肉体に込められた脂血が時間の経過と共に化学変化を起こし、浸みだしてきていた
のである。
事故処理班が軍服のなれの果ての糸屑をピンセットで取り出し、人型を拭い去った。
しかし、翌日早朝、事故処理班が現場に行くと、また人型が浸みだしている。
このままでは士気に影響すると考えた処理班長は、壁を擦り続けた。
それでも、人型は怨念のように翌日には現れている。
逆上した処理班長は自らセメントを塗りたくった。
ところが、また人型が滲み出ていたと言う。
ついにたまりかね、タガネでコンクリートを片端から削り取り、分厚くセメントを
塗ることで漸く人型は滲み出なくなったという。
211 名前: 名無し三等兵 投稿日: 2001/07/29(日) 04:54
ガキの時分に、鍼灸師のジジイから聞いた話。ちょっと変わった幽霊談です。
ニューギニアのあたりのある戦場でのこと。
大規模な戦闘をした部隊があって、その後、その部隊の前線基地に、
夜な夜な、死んだ兵隊たちが現われるようになったそうです。
彼らはいずれも、足がちゃんとあり、懐かしそうに
「よお!」とか言いながら、現われるのだそうです。
いずれも確かに戦死した連中ばかり。
神主の息子の兵士がまじないをやったり、お経をよめる兵士がお経を詠んだりしても、まったく効き目無し。
そのうち、ズカズカ上がり込んできて、貴重な飯をバクバク食う始末。
しかも、いきなり手がスルスルっと伸びて、木の実を取ったりして、明らかに化け物化している様子。
怖いやら迷惑やらで困っていたのですが、なんとも手の施しようが無い。
見るに見かねた中尉だか大尉だかの隊長さんが、幽霊たちが集まっているところへ、
ツカツカと歩いていって、いきなり大声で、
「全員、整列!」
と言うと、素直に整列したそう。そして、
「貴様らは、全員戦死した兵隊である。よってこの世にいてはならん。
全員あの世へ行って成仏するように。これは命令である!」
隊長が涙を流しながら言うと、幽霊たちは、しばらく呆然とした顔で佇んでいたが、
そのうち全員が泣き始め、やがてボロボロと土人形のように崩れていったそう。
あとにはその土だけが残り、彼らは二度と現われることはなかった。
兵隊たちはその土の大部分は現地に埋め、残りを少しづつ日本に持って帰って、供養したそうです。
「へんな幽霊だね」と僕が言うと、ジジイは、
「日本人の幽霊でも、死んだ場所が変わると、ちょいと変わるんじゃい」
と言っておりました。
「今、日本は平和かい?」と尋ねられ「うん」と子供が答えると
「・・・良かった、我々の死は無駄ではなかった」
そう笑顔で返した彼の後ろ、池の上にたくさんの兵士の姿があった。
●ひと玉を見ました
昭和十八年十二月十八日朝、女子軍属の宿舎の庭で行われた点呼の時でした。点呼も終わり婦長の訓示の其の時でした。
整列している私達の前方の空を人魂がふわりふわりと時間にすれば何秒かの時間でしたが、目の前を横切って行きました。
私は無神論者で神仏には関心を持つ方ではありません。ましてや霊とか人魂など信じる事などしない人種です。
でも其処に整列していた全員が目撃者なのです。其の時を境に人魂の存在を未だ半信半疑ですが認める事にしました。
薄い青と紫を混ぜた様な何とも言えない色で、大きさは私の頭程、玉の部分と同じ色の一メートル程の尾を引いていました。
「十二月十七日、年こそ変われ此の日は南京城入場式を日本軍に依って行われた日でした。十二月十日頃から日本軍は光華門、
和光門、中華門付近で大激戦の末、南京城を陥落させました。従って数多くの将兵が名誉の戦死をされました。其の英霊が私達に
会いに来た。」ざーと此の様な話を婦長が静かにお話になった事を強烈な出来事として記憶に残っています。
ちょうどキスカとアッツの間で、アッツ島寄りを哨戒していたところ、
その夜は珍しく海上は平穏で、さざ波一つないんです。空には月さえ出ていました。
こういう夜の襲撃は理想的なんだがな、と思ったりしたもんです。アッツ島が
墨絵のように浮き出ていました。しかし、相当な寒さで防寒外套を着ていても、
寒さが骨身にしみましたね。
その時です。突然アッツ島のほぼ中央と思われる所から、青白い炎のような塊が
上空に舞い上がったんです。何だろうと目を見張っているうちに、炎の塊は次第に
膨らんでくる。それが橙色に変わりながら、相当なスピードでこちらに飛んで来るんですよ。
その不気味さは言いようがありませんね。冷水を浴びたように、ゾッとしました。
何やらわからんが、とにかく、「両舷停止、潜航急げ」を下令して、大急ぎで潜航したんですがね。
潜入後しばらくして、航海長と信号兵が、「艦長、あれはアッツ島の英霊です。それに間違いありません」と、
異口同音に言っとったですがね。あの火の玉が砲弾とか信号弾でなかった事は確かです。
爆発音はしませんでしたしね。オーロラとかも考えたのですが、火の玉となって飛んできますかねえ、
オーロラが・・・。何であったかは今なおわからない。とにかく不思議なものでしたなあ・・・。」
「伊二潜」艦長(当時) 板倉光馬少佐の証言
佐藤和正著 「艦長たちの太平洋戦争」より
キスカ島で昭和17年10月3日に大空襲があり、呂号第65潜水艦が急速潜航を試みたが間に合わず撃沈された
艦尾は海中にあり、艦首は海上に突き出ていた
大発2隻で救助作業をし、46名を救助したが19名が戦死した
12月頃ののある夜間作業の際海上を見ていると、潜水艦の場所にボーッと火が出て海上を走ってくる
大発かと思ったがエンジン音が聞こえない 不思議に思って火の行き先を見ていたが、
海岸近くの高台の墓地のあるあたりで消えた
戦没者の霊魂だったのだろう
「現代民話考 軍隊」より
十数人が溺れ死んでしまった話をやっとた。しかし、生き残った子の話によるとその
時、防空頭巾をかぶった人たちが脚を掴んで次々と引きずり込んでいったらしい。
なんでも昔空襲で死んだ人たちの遺体をその海岸で焼いて埋葬したらしい。
しかも、その事件が起きた日と空襲のあった日は同じ日だったんだと。
今ではその海岸は遊泳禁止らしい・・・。
「知ってるつもり」で紹介されてた話だけど。
特攻基地の近くに特攻隊員御用達の食堂があったんだって。で、その食堂の女主人
は特攻隊員から母親のように慕われていたんだと。
その女主人に、とある特攻隊員が、出撃直前にこんなことを言った。「ボクが特攻
するのは、明日の夕方です。死んだら蛍になって戻って来るんで、お店の扉を開けて
いて下さい」・・・。
果たして、次の日の夜、お店に1匹の蛍が入って来た。女主人が「これは今日、特
攻した誰々だよ」とその場にいた他の特攻隊員に告げると「それはないよ」との返事。
けど、みんな自然に肩を組み合って合唱し始めたとか。
その女主人だけど、90歳近くまで長生きしたらしいよ。特攻隊員に「おばちゃん、
ボクは明日死ぬから、残りの命を上げるよ。その分、長生きしてね」と言われてたん
だってさ。何か悲しい話だよね。
ちなみに、その女主人の葬式のとき、どこからともなく1匹の蛍がやって来たとか。
その特攻隊員が迎えに来たのかな?
これも有名だな
"特攻の母"鳥濱トメの話
高倉健が主演の関連映画もあるし。
父が特攻隊の生き残りなので、
遅くに生まれた長女の私にも戦争の話をよくしてくれた。
もう80近い父は、自分で特攻や軍隊の本買ったり図書館行っては関連本借りてる。
そんな父が一番のお気に入りは、私が仕事で行った知覧特攻記念館で買った数冊の本。
ある日見ると、お気に入りのところに斜線がいくつも引いてあった・・・・
一度知覧に連れて行くのが夢だったけど、もう心臓も足腰も悪くなって
幻で終わりそうで切ないな・・・・・
高校生の時に「どうせいつかは死ぬんだから、今死んでも一緒だよなぁ」と言った私に祖父が語ってくれた話です。
戦時中祖父の乗っていた船が撃沈され、祖父は陸まで何とか泳ぎ生き延びたそうですが殆どの仲間が他界されたそうです。
戦後亡くなった友人達の遺族の方に挨拶回りをし、全て回り終わった祖父は自決しようとしたそうです。
素晴らしい人達が沢山死に自分だけ生き残った事を悔やんだ祖父は、遺書を書き軍服に着替え切腹しようとしました。
「皆に寂しい思いをさせてすまん、自分ももうすぐそっちに行く」と言い、短刀で腹を切ろうとした時「まだ来るな」と言う仲間の声がはっきり聞こえたそうです。
祖父は泣き、生きたくても生きられない仲間の為にも生きる事を決心したそうです。
怖い話ではありませんが、身内に起こった話ですのでここに書かせてもらいました。
日露戦争時の話。
戦争後、ロシア兵捕虜が何人も『白い服を着た日本兵はいくら撃っても倒れなかった』と証言した。
しかし、当時の軍服はグレーであり、白い服を着た日本兵など存在しなかった。
これは遠野物語という本にも載っている。
頑固で無口なヒトだが、あの眼で戦時中に何を見たのか
時々不思議になる。(徴兵されて終戦はセレベス島で迎えた)
まるで何か脅迫観念があるかのように信心深い(特定の宗教に
のめり込んでいるとかじゃなく、毎晩家の各部屋でお祈りをする
(各部屋にいる何かと交信している?)とか)から、昔何かあった
のか、元々何か見える体質なのか・・・。
もうボケて何の話も出来ないが、ボケる前もかなり無口で、
戦中にセレベス島で蛇を食べた話位しか聞きだせなかった。
家の祖父はシンガポール沖で海の藻屑と消えた。
で、10~11年前の秋に姉夫妻がマレーシアに赴任してシンガポールで
出産したので、祖母・両親・俺で会いに行くことになった。
高齢の祖母を連れていくのは難しいと両親は考えたが、祖母のたっての
希望で準備を進めた。
当日、祖母が祖父の遺書と形見を小さな巾着の中に入れていて、俺は生れて
初めて祖父の筆跡を見た。
家はお盆の時は墓と靖国神社に行く。祖父が遺書に「死んだら靖国に行く。もし、○○(祖父の幼馴染で戦友)
が亡くなっていたら○○は一人者だから○○の分まで弔うように」と最後らへんに書いてあった。(意訳)
だから、○○さんの分も家の墓地に墓石がある。
で、シンガポールで日本人慰霊碑に参拝して姉夫妻と子供と会って食事をしてホテルに戻った
時、父親がおかしい。
何度も俺に「はっきり言え、何を言ってんだ?」と俺に聞いて、「何も言ってないよ」と返していた。
そうこうしてるうちに、初孫の嬉しさでしこたま酒を飲んだ父親は寝てしまった。
俺はリッチな海外旅行に浮かれて、ルームサビースでシンガポールスリング等を取って、
ベランダで「赤ちゃんに乾杯」とかやってふざけていた。一人で遊ぶのも疲れてきたのでベットでテレビを
見てた時、ケタタマシイいびきとともに父親が「親父!俺の背中に乗れ!俺が連れて帰る!
恥ずかしくないおぶってやる!」
その後、声が小さくなり「父さん、父さん、僕の父さん」と泣きながら呟いて又眠った。
びっくりする出来事だったが、感慨深いものがあった。父が生まれる前に祖父は戦死したので、
抱かれた事もなければ、無論話を交わした事すらない。写真の中と祖母が話す祖父しか知らない。
父親は父がいなくても頑張ったんだなと思うと泣けてきた。
朝になって、寝言の事が気になったが黙っていた。別部屋で寝てた母と祖母と合流して
、朝食を食べてる時にばあちゃんが「昨日ね祖父さんと○○さん(祖父の戦友)がね迎えに来てくれて
ありがとうって出てきてくれたのよ。祖父さんがね、足が悪いからって、俺の父親さんがおぶってくれたの。
○○さんが横で泣いててね。私は一緒に帰れますねって言ったのよ」と言い出した。
正直、小便ちびりそうだった。父親を見ると目を真っ赤にして泣きそうだったので、俺が夜、見聞きした事を
その場で話した。
一同黙っていたが、祖母が「はーやっぱり来てよかったわ。私の人生の悔いがなくなったし、俺の父親さん
の姿を見て、私と一時を共にして良かったと思ってらっしゃるでしょう。幸せな方よね祖父はw」
と笑顔で言った。それを聞いた父親は「よかったな」って笑顔に戻ったのが印象的だった。
幽霊とかそんな話じゃないけど、まだ帰れない人もいるんだなと思った。
余談
祖母が亡くなる前に、祖母が母親に「あの時、私の顔がおばあちゃんになってるから、
祖父さんもびっくりしたでしょうね。でもお婆さんになった顔を一度見てるから、
迎えに来る時はまっすぐ来てくれるわね安心、安心」
と言ってたそうだ。祖母は最後すこし呆けて、祖父と出会った頃に戻って母親にノロケてたらしい。
祖母の葬式の時、火葬場で母親が「おばあちゃん、やっとおじいちゃんに会えたね」って笑顔で
泣いていたのが印象的だった。
※祖母は、父や祖父の名前をさん付で呼ぶ。
駄文・長文重ね重ねすいません。
弟の夢に上級将校の兄が官用車みたいなので乗りつけ、後席から出てきて
「世話になったのう…」と伝えた。後日調べてみるとやはりその日に戦死していたとか。
インパール作戦に参加した兵士が夢で祖母の死を悟った話。
同じくインパールで別の兵士がアメーバ赤痢だったかで生死の境のときに
先に亡くなっていた戦友が夢に現れ、しきりに何か伝えようとしている。
なぜかその後に竹炭を食べることが頭をよぎり、そのおかげで生き延びた話、など。
寝ている時のほうが霊魂と交信しやすいのかもしれないね。
空襲で親が亡くなった祖父(当時国民学校)のはなし
終戦の2日前くらい?夢に亡くなった父親(自分には曾祖父)が出てきて
「○○(祖父の弟)の咳が気になる、医者に診せなさい」と言って消えた
医者に行ったら結核の初期だった。発見が早かったので助かったとか
死んでも子どもの事が心配だったんだな、と祖父が話してくれた。
その大叔父は昨年亡くなったけど、どんなに遠くに越しても
父親の墓参りは絶対に欠かさなかったと聞いてる。
姿と声を聞いた訳ではなかったそうだが、誰もいないはずの廊下から内履きのスリッパの音がしたらしい
慌てて廊下へ出て見ると、玄関へあったはずのスリッパがなぜか居間の前に並んでいた。不思議に感じながらスリッパを見つめていると、突然片方が玄関の方へ向けて滑っていたんだって
その直後、何か大事な者を失ったと感じて婆ちゃんは涙が溢れて止まらなかったと言っていた
戦争は駄目よ
戦時中、将校だった爺さんが死んで、遺品の整理をしてたら
本に挟んであった白黒の写真を見つけた。
その写真は驚く無かれ、生首が50個(数えた)が地面の上に
並べてあり、中央に軍服姿の爺さんが刀持って椅子に
座ってるのがあった。
当時、俺はガキで怖いと言うより、
漫画みたいで、おかしくて弟と一緒に笑った覚えがある。
関東大空襲と思われる写真もあった。
真っ黒に焼け焦げた死体は手足がまっすぐに
色んな方向に伸びたり曲がったりしてて
不思議なオブジェだった。
未来の戦闘機が戦っていたって話ない?
なんかジパングネタみたいでスマン
関係あるかどうか分からないが真珠湾攻撃の前日に
太平洋艦隊司令部に当時はただの提督でしかない
ニミッツ(当時少将)の名前が付いた空母から無線を発信(でいいのか?良くわからんが?)
したとかいう話があるそうだ
フーファイターじゃないか、その話し?
ロックバンドのフーファイターズの名前もここからとってるんだ
太平洋戦争時代、アメリカ軍である飛行機の目撃が報告された
とても従来の飛行機とは思えないほど不思議で機敏な動きをする円盤状の物体
アメリカは日本かドイツが作った新型だと思って結構ビビってた
でも当時はまだ今で言うUFOみたいな目撃は一切なくて、存在すら認識されてなかったんだよ
その謎の飛行機をアメリカは『フーファイター』と呼んだってわけだ
425のは、映画ファイナルカウントダウンでタイムスリップした
空母ニミッツが真珠湾攻撃寸前のハワイ海域にて活躍する、って
お話です。そのときのワンシーンで425が書いた場面があって
笑いを取っておりました。
フーファイターと太平洋戦線をからめた面白い漫画もありますね。
シテレイシマシ なんてね。
「大阪、一心寺にて」という話怖かったな
終戦間際の大阪の話なんだけど空襲の焼夷弾で
黒焦げになった遺体を回収して夜に焼却するまで
見張りをさせられてたら遺体の周りに十数人の
黒い影がうごめいていて遺体から貴金属を剥ぎ取っている…