そのホテルは山に囲まれた湖の湖畔に立っていた。
ボートには白のTシャツに若草色のパンツ姿の女性がいた。
女性は何やら慌てふためいていた。
やがて手でメガホンの形を作り、手前の岸に向かって何か声を上げた。
距離があるためか、声は全く聞こえてこなかった。
「何か見える?」
背後から彼女が声を掛けてきた。
「あのボート、もしかして・・・」
「やだ、沈んでいるじゃない!」
フロントに湖で女性が溺れているから救助してやってくれと電話した。
「はぁ」と気のない返事。
俺は部屋を飛び出して表に出た。
湖の水面は穏やかで、波ひとつ立っていない。
ほとりにいた人たちに女性はどうなったのか訊ねてみた。
しかし皆、ボートに乗った女性どころかボートが湖に出ているところすら見ていないという。
「本当に見ませんでしたか?。ほら、白の・・・」
俺はそこで硬直してしまった。
気が付くと、周りの全員が俺のことを訝しんでいる。
立つ瀬が無くなり視線を彷徨っていると、白い板張りのボートハウスが目に留まった。
管理人が何か見ているんじゃないかと思い、俺はそこへ向かった。
ホテルの部屋に戻ると、彼女がガタガタと震えていた。
俺は彼女の肩を抱いて何かあったのか訊ねた。
「あの人、しばらくこっちの岸に向かって何か声を上げているんだけど誰も気付かなくて、そしたら窓から覗いている私に気付いたみたいで、私に向かって、助けて、助けてと叫びながら沈んでいった。すごく恨めしそうな顔をして・・・。ねぇ、おかしいよね?岸に向かって叫んでいた時は何も聞こえなかったのに、どうして私の方を向いた瞬間、あの人の悲鳴が聞こえるの?ベランダに出ていたのならともかく、窓から覗いている私に気付けるものなの?だいたいそもそも・・・」
「冬にTシャツ一枚はおかしいよな?」
「うぅ、うん」
「湖のほとりにいた人に訊ねてみたけど、ボートなんて知らないって。ボートハウスがあったから管理人に聞こうと思ったんだけど、冬期休業中って看板があった。ボートは全部、陸に上げられていてブルーシートを被せられていたよ。少なくとも勝手に持ち出せるような状態にない。よくよく考えてみれば、こんな寒いなか、ボート遊びをする人なんているわけがない。」
「じゃぁ、じゃぁ、私たちがここから見たものは何なのっ?!」
しばらく沈黙した後、俺の方から帰ろうかと誘った。
フロント係に適当な理由を挙げて宿泊のキャンセルを申し出た。
宿泊料の90%払うというホテル側の条件を飲んで、俺たち二人は家に帰った。
今年の夏、彼女から暑中見舞いをもらった。
彼女とはその後二年ほど付き合ったが、俺の不徳により別れてしまった。
今は結婚して一児の母になっている。
暑中見舞いには次のことが書かれていた。
「◯◯さんはあのホテルのことを覚えていますか?実は先日、主人からあのホテルに関する噂話を聞いたのです。主人が言うに、あのホテルには女性の幽霊が出るという噂があるのです。夜な夜な、全身ずぶ濡れの女性が枕元に現れ、すごく恨めしそうな顔で、あんなに助けてと叫んだのに・・・と言って、泊り客をあの世へ引きずり込もうとするそうです。」
本当の話かどうかは判りませんが、「助けてと叫んだのに」と言うところが、私たちの見たボートの女性と妙に符合するので気になります。