会社の先輩の話。
転職して半年くらいたった頃、別の課の
5つ上の先輩と仲良くなった。
課は違うが喫煙室でよく一緒になってる内に
意気投合して仲良くなった。
そんである時、その先輩の奥さんの話になった。
その奥さんてのが結構問題ありな人らしく、
ことあるごとに罵声やらなんやと先輩に対して
きつくあたるらしい。酷い時には手まででるらしいから
おだやかじゃない。
「それって最近たまに聞くDV妻ってやつじゃないですか?」
「いやそういうもんじゃあないよ。ただ少し神経質な性格なだけだよ。」
そう言って笑う先輩の眼もとには青痣ができているし、腕にも爪で
引っ掻いたような生々しい傷があった。正直モラハラ&DV妻なんかとよく
一緒に暮らしていけるなと思ったが、もちろん口には出さなかった。
ある日その先輩から、自宅へ招待された。
「嫁に君のこと話たらさ、見てみたいって言うんだ。
だから今度の土曜でも家にきなよ。おいしい夕食とうまい酒でもてなすよ。
嫁も是非とも呼んでくれってさ。」
俺自身も、先輩の奥さんを見てみたいって気持ちがあったから
快く先輩の誘いを受けた。
数日後、土曜の夕方。先輩の家は駅から歩いて10分くらいの住宅街にあった。
二階建ての白い家で、数年前に引っ越してきたんだそうだ。
外壁の門を通り、玄関の扉を開けると、待っていたかのように
にこやかな表情の先輩が出迎えてくれた。
「ようこそ。ささ、どうぞあがってくれ。」
玄関をあがりリビングに入ると、おいしそうな匂いがした。ビーフシチューかな。
「遠路ご苦労だったね。夕食はもう少し待ってくれ。もうすぐ出来上がるから。」
そう言って先輩は自ら台所にたって料理を始めた。
俺は不思議に思った。
「あれ、奥さんはいらっしゃらないんですか?」
俺はきいた。
「すまん。実は家内は今日具合が悪くってな。今、家にいるにはいるんだが二階で休んでるんだ。
でもまぁ大丈夫。今日は俺が腕によりをかけて飯を作るから楽しみにしてくれ。」
先輩は言った。
俺は驚いた。顔を見てみたくて家に呼ぶくらいだから、奥さん直々に
さぞかし豪勢にもてなしてくれるんだろうと勝手に期待していた。
それが姿も見せずに二階で休んでいるとは・・。
「あ、でも挨拶くらいはしておいた方がいいすかね?せっかくですし。」
俺は言った。
「いやいや、それはやめておいた方がいい。具合悪いし、きっと機嫌が相当悪いはずだ。」
先輩はあわてて止めた。
「なーに、君はソファでゆっくりしててくれ。これでも料理は得意なんだ。」
聞くと先輩の奥さんは、料理等の家事を全くしないそうだ。
おまけに仕事もしてないそうで、本当にいったいどういう人なのか
ますます気になった。
夕食が出来上がると、俺と先輩は二人で夕食を囲んだ。
先輩の料理は確かに言うだけあって旨かった。
用意してあった焼酎も飲みやすくて、俺の舌に合った。
酒が入ってお互い饒舌になると、趣味や仕事の愚痴やらで
盛り上がった。日も落ち、数時間は二人で語り合っていた。
ドン
そんなとき、その音は天井から聞こえた。
最初は二階で先輩の奥さんが、なにか床に
落としたのだろうくらいに思っていた。
だから全く気に留めなかった。
俺と先輩はそのまま会話を続けた。
しかし1分後くらいに
ドン!ドン!ドン!
明らかにさっきより大きい音が天井から
鳴り響いた。それは一種の敵意が込められたような
音だった。まるでマンションなんかで階下の人の出す
騒音を非難するためにたてる音。いわゆる床ドンと
いうやつだ。
俺は先輩を見た。
「ごめんなぁ。ちょっとだけ声の音量を下げよっか・・。」
先輩は申し訳なさそうに言った。
俺は先輩の言葉に従って、小さな声でしゃべることにした。
数分間はそんな風に、お互いコソコソとつぶやくように
しゃべっていたと思う。しかし不意に俺が、先輩の言った
冗談にやや大きめの声で笑った時(本当に若干だったと思う)
ドドドドドドドドドドドドドドドドドド!!!
ダダダダダダダダダダダダダダダダダダ!!!
ドンドンドンドンドンドンドンドンドン!!!
まるで天井から雪崩でも押し寄せたかのような音だった。
その音は10秒くらい鳴り響いていたかと思うが、
その時はもっとずっと長く鳴り響いていたように感じた。
いったいどうやったらあんな音が出せるのか。
超高速で地団駄でも踏んでいるのだろうか。
とにかく尋常じゃない音だ。完全に常軌を逸している。
俺は先輩の奥さんが具合が悪いと聞いて体調が悪いと思っていた。
しかし、その時はきっと奥さんは精神的な病を抱えている人なんだと思った。
しばらく唖然とした後、俺は再び先輩を見た。
先輩は苦笑いを浮かべていた。
「ごめんなぁ。盛り上がってるのが気に食わなかったのかもしれない。
ちょっと二階で話してくるよ。すまんが少し待っててくれないか?」
先輩は俺を残して二階へあがって行った。
しばらくたった時は、俺は尿意を感じトイレを借りた。
トイレを出ると、二階から先輩が話す声が微かに聞こえた。
「だから・謝って・・し・」
「・・・・・・・・」
「すこし・がま・・てくだ・い」
「・・・・・・・・」
「わかっ・から、そんな・怒・な・で」
「・・・・・・・・」
先輩の声は認識できるが、奥さんの声はほぼ聞き取れなかった。
ただ先輩の声と声の間に、ボソボソとつぶやくような音は
なんとか聞き取れた。ただその音は女の人の声というには
低く、とてもこもった音だった。
しばらくして、先輩が降りてきた。
降りてきた先輩を見て俺はぞっとした。
先輩の顔は青ざめてげっそりしていた。
さっきまでのほろ酔い顔とはまるで違う。
目の下のくまも目立ち、そのくせ眼光だけは
妙に鋭かった。
「なぁ、今日はもう遅いし、家に泊まっていかないか?
嫁もそうした方がいいんじゃないかって言ってるんだ。」
先輩は唐突に言った。俺は意外に思った。
あれだけ敵意むき出しの歓迎を受けた後だから
てっきり今日は帰れと言われるんだと思っていたからだ。
「結構酔っているだろ?千鳥足で帰るのも危ないし、な?」
先輩はしきりに勧める。
「いえ、遠慮しておきます。明日、朝早くから資格試験があるんです。
ですから今日はもう帰ります。」
俺は断った。
「そうなの?でも本当に遠慮なんかしなくていいだよ?」
「いえ、そういうわけではないんですが、やっぱり今日は
自分の家で休んで明日に備えたいです。」
俺はきっぱり断った。
明日資格試験があるのは本当だった。そのために今日は帰っておきたいとも
最初から思っていた。でもその時はそれ以上にこの家で一晩過ごすことに
強い拒否反応があった。
しつこい先輩の誘いをなんとか断り、
俺はなんとか先輩の家をあとにすることになった。
帰り際、先輩はあからさまに不機嫌さを表した。
「じゃあ。」
俺を出迎えた時とは比べ物にならないくらい、冷たく、無感情な
別れかただった。
玄関をでた直後、玄関のドアが閉まりかけた時
俺は一瞬後ろを振り返り先輩を見た。
閉まりかけのドアの向こうで、先輩が見送りも
そこそこに家の奥に向かって歩いて行くのが見えた。
先輩の顔は恐ろしいくらい無表情だった。
まるで蝋人形みたいで、俺はぞっとした。
限界のドアが閉まり、家の外壁まできたとき
後ろから視線を感じた。
俺はまた振り返り、家の二階を見た。
二階の窓でカーテンが微かに揺れたように見えた。
二階の電気は付いておらず、カーテンの向こうは
真っ暗だった。
その暗闇の奥の誰かと目が合ったような気がして
背筋が薄ら寒くなった。
俺は足早に先輩の家を後にし、駅の方向へ向かった。
週があけた月曜。あんなことがあったとはいえ、
誘いを断ったのはやはり失礼だったかなと思いなおし、
俺は先輩に会って謝ろうと思った。
しかし会社で先輩の姿を探すが見当たらなかった。
聞くと休みらしい。その後、数日間、先輩は休み続けた。
俺は先輩と会うことができず、携帯にも連絡したがだめだった。
そして、そのまま先輩は会社を辞めた。
先輩が辞めた後、ある時、先輩がいた課の上司と喫煙室で一緒になった。
「そういえば○○先輩、どうしちゃったんすかね。あんな急に辞めるなんて。」
俺はその上司に聞いた。
「そうだなぁ、あいつはもともと精神的に不安定な面があったからな。」
上司は言った。
「やっぱ、奥さんが関係してるんですかね?結構きつめの奥さんだったそうじゃ
ないですか。」
俺は言った。
「あれ?あいつ結婚してたの?嘘だろ。そんな話全く聞いたことないぞ。」
その上司は真面目な顔つきで言った。
俺は先輩としゃべったことや家に招かれたことをその上司に話したが、
最後まで上司は納得してくれなかった。
「あ、でも『いい人を見つけた』みたいなことを言っていたことは一度だけあったかも。
たしか急に中古の一軒家を買ったころだったかな。まぁでも普通結婚したら上司に
報告するだろ。たとえ結婚式あげないにしてもさ。」
その後、数年前に先輩がいた課の若い子が、突然行方不明になったことがあったと知った。
先輩と仲が良かったらしい。
今でもあの家の二階にいたモノがなんだったのか。
あの時泊まっていたらどうなっていたか。
考えるだけで背筋が寒くなる。