買ってきていたので、観察日記をつけるのが自由研究には一番手軽な方法だったからだ。
けれども俺は4年生のときにその観察日記をやめてしまうんだが、その時の話。
うちにあった庭は、母屋で凹型に囲われた中庭のような感じだった。
まあ日当たりは悪くなかったんだけど、結構な本数の樹木と古い家特有のどことなく陰鬱な
雰囲気が嫌いで、俺はあまり一人で庭に出たりはしなかった。
中庭の隅のほうには、でかい石造りの露天風呂のようなものがあった。
「ようなもの」と書いたのは、それがとても風呂としての用途をなすようには見えなかったからだ。
形はほぼ直方体で(バスタブを想像して貰えれば判り易い)、広さは3メートル×6メートル、深さは
2,3メートルはあったんじゃないかと思う。そいつが棺桶のような感じで地面に埋まっていた。
その「風呂」はもうだいぶ使われた形跡が無く苔むしていて、
子供が誤って落ちたら危ないということで上には金網が張ってあった。
蛇口みたいなもんは周りには無かったし、何より奇妙だったのは
その「風呂」の底はコンクリでもなんでもなくただの「地面」だったことだ。
ただ、当時の俺にはそれ以上のことは判らなかったし、興味も無かったから特に気にしなかった。
その年の夏休みも半ば、俺はそろそろ観察日記に飽きてきて内容も適当になっていた。
朝顔の写生はおろか、植木鉢の中の雑草とりすらやらない。
そういうことには結構厳しかったうちの親父は「一度決めたことは最後までやり遂げろ、
せめて雑草取りくらいはやれ。」と俺を叱責した。
まあ、面倒だというほかにも理由はあった。
俺は朝寝坊をしない性質だったので正直早起きして観察くらいは特に苦では無かった。
けど、みんなが寝ている中一人で庭に出て朝顔をみるなんて事は、怖くてやりたくなかった。
こんなことを親父に話しても納得されるはずも無く、笑い飛ばされて逆にからかわれた。
それで俺も多少頭にきたので、次の日の朝は張り切って庭に出て日記をつけていた。
それでも、朝だろうが、昼だろうが、俺はこの庭の陰気な感じがどうしても好きになれなかった。
母屋の縁の下から「お化け」が出てきて背後から襲われるかもしれない、
なんて内心ビビリながら日記をつけていた。
いつもは「風呂」を覆っているはずの金網が無いのだ。(ない?)
普通ならここで好奇心に任せて「覗いてみよう」なんてことになるんだろうけど、
大嫌いな庭でこんな「異常」を感じた俺はちょっとした恐慌状態だった。
と同時に、やはり年相応の好奇心も頭をもたげてくる。怖いもの見たさ、と言うやつだ。
俺は恐怖心を押し殺しながら、そろ、そろとその「風呂」に近づいていった。
そして万が一にも落ちることが無いように、その風呂の縁をしっかり掴んで、中を覗き込んだ。
…何も無い。
まあ、当たり前か。
ホッとすると言うよりも拍子抜けした感じで、俺は頭を上げた。
と同時に、もう一つの異常に気付いた。
……何か聞こえる。何だ。人の声だ。
ぶつぶつ、ぶつぶつとよく判らない呟きが、背後から聞こえる。
このとき、俺はもはや硬直して動けなかった。振り返ることもできない。
しかし、その呟きは、徐々に音量を増しながら俺の背後へと迫ってくる。
このまま振り向かずに真後ろまで近づかれるのを待つか、振り向いて一目散に逃げるか。
選択肢は二つに一つだった。
俺は覚悟を決め、極限状態まで高まった恐怖の中で、タイミングをとって振り返ることにした。
いち、に…さん。
俺の眼前には、あの「朝顔」があった。
俺はもう狂ったような勢いで立ち上がり、一目散に勝手口に向かって走った。
そして扉を閉めて鍵をかけ、その場にへなへなと座り込んだ。
右手に視線を落とすと、朝顔の観察日記はぐしゃぐしゃに握りつぶされていた。
俺はこのとき以来、朝顔の観察日記はつけないとかたく決めた。
「その日」の昼に庭を見てみると、金網はちゃんとあったし、朝顔の植木鉢も元の位置にあった。
気のせい。気のせいだ。
そう自分に言い聞かせてみても、とても観察日記を続ける気にはなれなかった。
思い切って祖母には俺の体験談を打ち明け、そのうえで聞いてみたが、
無言で首を振るばかりだった。
それでもしつこく俺が問いただすと、祖母はただ、
「お前がそれに返事をしなくて良かった」
とだけいった。
返事?何のことだ、俺にはあの呟きが俺に何かを聞いてるようには見えなかった。
だとすれば、もしかしてあのおかしな「風呂」のようなものと何か関係があるのか。
頭の中は疑問で一杯だったが、それ以上は何を聞いても答えてくれなかった。
小学5年の終わりに引っ越して以来、その「風呂」がどうなったのかは知らない。
もう家の取り壊しと同時に埋められているだろうから、現物を見ることもできない。
結局、朝顔とあの奇妙な「風呂」が関係あったかどうかすら判らないままだ。
何もかもわからずじまいだが、俺はこれ以上のことを知らない。
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