母が、私が生まれるより前に中古で買ったらしい。
小学生のとき、一度だけ弾こうとしてみたが、ベース(足用鍵盤)の音が全く出なかった。
高校生になって、三学期の中間考査の勉強をしているときだった。
テスト勉強は、本番の二日前か前日にしかやる気が出ずに、その時も、前日の深夜遅くまで勉強していた。
一時半になった頃、一階のリビングから、オルガンを弾く音が聞こえてきた。
(私の部屋は二階にあり、そこで勉強していた。聞こえた曲は、名前は忘れたけど、多分有名なやつ。)
ベース音がないので、とても頼りない音だった。
この家でオルガンを弾けるのは母だけなのだが、母はもう寝ているし、この時間帯に弾くほど非常識じゃない。
オルガンの音を聞くのは久しぶりだし、この時間帯なので、少し怖かった。
しばらく待ってもやめる気配がない。曲もループしているし、気になって勉強できないし眠ることもできない。仕方なく見に行くことにした。
真っ暗なのは怖かったから、廊下や踊り場の電気を全部つけながら行った。
「………!」
リビングの電気はついていなかった。なのに、オルガンの音は聞こえる。さっきより、音が少し大きい気がする。
母が弾いてるんだとしたら、どこか、頭がおかしくなってしまったのかも知れない。そうだとしても十分怖いが、
(本当に、お母さんなのか)
などと考えてしまい、恐怖でリビングのドアを開けられなかった。(常識的に考えれば、オルガンを弾いているのは家族の誰かなのだが、現状が不気味すぎた。)
五分くらい固まって冷や汗を流していたら、突然、オルガンの音がやんだ。
なんと言うか、静かになると逆に、めちゃくちゃ怖くて、なにかあればすぐにでも泣いてしまいそうで、体の中心に向かってものすごい圧力がかかったように感じた。
しかしそれをキッカケに、はやくドアを開けないといけない気もした。
静かな中に、にドアを開けるときの音が大きく響いて、かなりビビった。
真っ暗では何も見えないので、電気をつけた。体は熱いのに、頭は、血が少ないのか寒くて、冷や汗が凄かった。
オルガンの前に母はいなかった。誰もいなかった。
こんなことが、次の日もあった。音がやんでからリビングに入ると誰もいないのだ。
母に話しても、わからない、知らない、寝ぼけたんじゃないか、などとしか言われなかった。
また次の日も、オルガンの音が鳴り出した。
三回目でも相変わらず、というか三回目だけにかなり怖かったが、もう今回は音が聞こえるうちにリビングに入ると決めていた。
二階から一階までをダッシュで駆け抜け、足がすくむ前にそのままリビングのドアを開けた。
女の人がいた。
ワンピースを着ていて、後頭部には髪の毛が生えていなかった。
私は、驚きのあまり声も出ず、体も動かず、なのに汗だけは体のどこかが壊れてしまったように流れていた。
女の人が振り返った。(この動作はとてもゆっくりで、多分十秒くらいかけて振り向いた。)
暗い上に、結構距離があったので顔はよく見えなかったが、多分目に何かがびっしり刺さっていた。口は私よりかなりおおきかったと思う。
顔もすごいが、それでも一番印象的だったのは、足がないことだった。
それが、普通の人間を見慣れた私にとって、視覚的に圧倒的な違和感を与えた。
女の人がいきなり絶叫した。
動けない私は、泣いてしまった。踏み潰されたような声を出して泣いてしまった。
女の人が絶叫している時間は無限にも感じられたが、実際は数秒だったのだろう。
また突然叫ぶのをやめて、そのまま固まってしまった。
女の人に背を向けるのは本当に怖かった。
しかし、私はその瞬間に全力でリビングを飛び出し、玄関を駆け抜け、外に走り出した。家の中にはいられなかった。
女の人がついてきていないのを確認して、そのまま朝まで外で過ごした。
朝、家に女の人はいなかった。家族は何も知らないようだった。あのおぞましい絶叫も聞かなかったらしい。
その一ヶ月後、私は交通事故にあった。自転車でバイクとぶつかった。
下半身が、おそらく一生、動かなくなってしまった。
またその二年後、母が新しいオルガンを買った。
今度の新しいオルガンは、ベースの音もいい。母は楽しそうだった。私も一度だけ弾こうとしたが、やっぱり、ベースは弾けなかった。