615: 2006/07/12(水) 02:58:14 ID:h6uV5CRw0
弟の10歳の誕生日。僕はその二ヶ月前に12歳になっていた。
家族でささやかなパーティー。父母僕弟の四人で、テーブルに置かれた、
普段よりずっと豪華な食事を囲んだ。
テーブルの真ん中にはケーキ。甘いものが好きな弟は何より先にそれを食べたがった。
10本立てたロウソクに火がともる。
明かりを消そうねと言って母親が立ち上がり、蛍光灯の紐を引いた。
ドーナツ型の蛍光灯が、はじめは二つ点いている。一回引いてその一つが消える。
二回目に紐を引くと、二つめの蛍光灯が消えて、代わりにオレンジ色に光る小さな電球がともる。
夕暮れよりもう少し暗い、オレンジ色の薄闇の中に、ロウソクに照らされたテーブル、
それから家族の顔がぼうっと浮かぶ。
もう一度紐を引いて部屋を暗くしようとしたとき、せっかちな弟が力み返った息を吹き出して、
ロウソクの火を全部消した。
母親が紐を引くのが、それと同時だった。
カチ、と音がして明かりが消え、同時に弟の息で火も消え、つまりそこは真っ暗闇。
カーテンの隙間から漏れるかすかな外の明かりが、やけに遠くに見える。
暗くしてからロウソクを消す、という段取りが頭にあった僕達家族は、一瞬呆然とした。
弟は弟で、火を消したつもりが部屋ごと真っ暗になって黙り込んだ。
ここで母親がすぐに紐を引いて、もう一度明かりをつけてくれればよかったのに。
驚いた母親は紐を放してしまった。
普段よりずっと豪華な食事を囲んだ。
テーブルの真ん中にはケーキ。甘いものが好きな弟は何より先にそれを食べたがった。
10本立てたロウソクに火がともる。
明かりを消そうねと言って母親が立ち上がり、蛍光灯の紐を引いた。
ドーナツ型の蛍光灯が、はじめは二つ点いている。一回引いてその一つが消える。
二回目に紐を引くと、二つめの蛍光灯が消えて、代わりにオレンジ色に光る小さな電球がともる。
夕暮れよりもう少し暗い、オレンジ色の薄闇の中に、ロウソクに照らされたテーブル、
それから家族の顔がぼうっと浮かぶ。
もう一度紐を引いて部屋を暗くしようとしたとき、せっかちな弟が力み返った息を吹き出して、
ロウソクの火を全部消した。
母親が紐を引くのが、それと同時だった。
カチ、と音がして明かりが消え、同時に弟の息で火も消え、つまりそこは真っ暗闇。
カーテンの隙間から漏れるかすかな外の明かりが、やけに遠くに見える。
暗くしてからロウソクを消す、という段取りが頭にあった僕達家族は、一瞬呆然とした。
弟は弟で、火を消したつもりが部屋ごと真っ暗になって黙り込んだ。
ここで母親がすぐに紐を引いて、もう一度明かりをつけてくれればよかったのに。
驚いた母親は紐を放してしまった。
616: 2006/07/12(水) 02:59:45 ID:h6uV5CRw0
母親が手を動かして紐を探すのが気配で分かる。
誰も喋らない。
だが何かが喋っていた。
「軟らかい上り坂。平らな道。急な坂。丸みを帯びた壁。途中に半開きの扉。
上ると、てっぺんはさらさらした野原。」
「野原を抜けると、丸みを帯びた崖。途中に半開きの窓。下ると、坂、平らな道。
軟らかい下り坂。」
手のひらで撫でられる感触があった。二の腕をのぼり、肩から首へ滑っていき、
首から顔の横をのぼって、途中耳に触れて、髪の毛を撫でる。
反対側を、今度はそれと逆の順で下っていく。
「下りてきた。冷たい、硬い道」
テーブルの上を手のひらが這う音。
「上り坂。さっきより軟らかい」
隣の弟が体を硬くするのが気配で分かった。
「坂を上ると平らな道。さっきより短い。急な坂。丸みを帯びた壁。途中、半開きの扉に、
おや、鍵穴があったのか」
「あああああ」と弟が悲鳴を上げた。椅子もろとも床に倒れる音。
「なおきなおきなおき、なにしたの」と母親が叫んだ。「どうしたんだなおき」と父親が怒鳴った。
母親がようやく、紐をつかんだ。しかし動転しているのか、めちゃくちゃに紐を引きまくる。
十回も二十回も。
明かり、弱い明かり、薄闇、暗闇。カチカチ、音を立てて目の前の光景が色を変える。
ひとつづきのはずの視覚が、コマ送りになる。
そのコマ送りに乗って、カチ、カチ、と弟がテーブルから離れていく。
カチ、5センチ。カチ、10センチ。カチ、15センチ、カチ、真っ暗。
弟は耳から血を流して、横ざまに倒れて体を縮めていた。
カチ、20センチ。カチ、25センチ。カチ、30センチ、カチ、真っ暗。カチ、カチ、カチ、
カチカチカチカチ
やがて弟は部屋のドアのそばまで来た。母親がまた紐を引いた。カチ、真っ暗。
最後のカチと一緒に、ブツ という音がした。真っ暗のまま、蛍光灯の紐が切れたのだ。
母親が手を止めた。そして、その体が闇の中でゆらめいて、テーブルの上に倒れた。
食器の砕ける音の中、「こわいよおこわいよお」という弟の声が遠ざかっていった。
誰も喋らない。
だが何かが喋っていた。
「軟らかい上り坂。平らな道。急な坂。丸みを帯びた壁。途中に半開きの扉。
上ると、てっぺんはさらさらした野原。」
「野原を抜けると、丸みを帯びた崖。途中に半開きの窓。下ると、坂、平らな道。
軟らかい下り坂。」
手のひらで撫でられる感触があった。二の腕をのぼり、肩から首へ滑っていき、
首から顔の横をのぼって、途中耳に触れて、髪の毛を撫でる。
反対側を、今度はそれと逆の順で下っていく。
「下りてきた。冷たい、硬い道」
テーブルの上を手のひらが這う音。
「上り坂。さっきより軟らかい」
隣の弟が体を硬くするのが気配で分かった。
「坂を上ると平らな道。さっきより短い。急な坂。丸みを帯びた壁。途中、半開きの扉に、
おや、鍵穴があったのか」
「あああああ」と弟が悲鳴を上げた。椅子もろとも床に倒れる音。
「なおきなおきなおき、なにしたの」と母親が叫んだ。「どうしたんだなおき」と父親が怒鳴った。
母親がようやく、紐をつかんだ。しかし動転しているのか、めちゃくちゃに紐を引きまくる。
十回も二十回も。
明かり、弱い明かり、薄闇、暗闇。カチカチ、音を立てて目の前の光景が色を変える。
ひとつづきのはずの視覚が、コマ送りになる。
そのコマ送りに乗って、カチ、カチ、と弟がテーブルから離れていく。
カチ、5センチ。カチ、10センチ。カチ、15センチ、カチ、真っ暗。
弟は耳から血を流して、横ざまに倒れて体を縮めていた。
カチ、20センチ。カチ、25センチ。カチ、30センチ、カチ、真っ暗。カチ、カチ、カチ、
カチカチカチカチ
やがて弟は部屋のドアのそばまで来た。母親がまた紐を引いた。カチ、真っ暗。
最後のカチと一緒に、ブツ という音がした。真っ暗のまま、蛍光灯の紐が切れたのだ。
母親が手を止めた。そして、その体が闇の中でゆらめいて、テーブルの上に倒れた。
食器の砕ける音の中、「こわいよおこわいよお」という弟の声が遠ざかっていった。
617: 2006/07/12(水) 03:01:12 ID:h6uV5CRw0
僕は長いことじっとしていた。母親は気を失っているようだった。
ひとりそこを離れた父親が、手探りで見つけた懐中電灯で部屋を照らした。
ドアを照らし、あけると、廊下が暗い。
「廊下の電気はいつもつけているのに」と父親が言って、部屋を出た。
暗い中動く気配があって、懐中電灯の光の筋が踊った。
「あった、スイッチだ」
カチ、と音がして廊下の明かりがついた。壁に遮られて半分しか見えない父親がこっちを見た。
僕もそっちを見た。手首から先だけの薄い手のひらが、指先をこっちに向けて
父親の右の耳を覆っていた。
ひとりそこを離れた父親が、手探りで見つけた懐中電灯で部屋を照らした。
ドアを照らし、あけると、廊下が暗い。
「廊下の電気はいつもつけているのに」と父親が言って、部屋を出た。
暗い中動く気配があって、懐中電灯の光の筋が踊った。
「あった、スイッチだ」
カチ、と音がして廊下の明かりがついた。壁に遮られて半分しか見えない父親がこっちを見た。
僕もそっちを見た。手首から先だけの薄い手のひらが、指先をこっちに向けて
父親の右の耳を覆っていた。
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