俺が住んでいたのは、麻布の谷間に沈むようにある墓場のそばの、
じめじめした小さなアパートだった。
ある日、会社に何日か泊まり込んで仕事をしていた俺は、久しぶりに終電でアパートに帰った。
家に入ろうとして、アパートの鍵を会社に忘れたことに気がついた。
今から友人のところに行くのも迷惑だし、ホテルに泊まるほどの持ち合わせもない。
なにより俺は疲れていた。
部屋の前に駐めてあるバイクのカバーをはがすと、俺はその中にもぐり込んだ。
キャンプ好きな俺は、野宿には慣れていた。
コンクリートは野山の土に比べれば堅かったが、とりあえず体を伸ばすだけのスペースはあった。
隣の住人が見たら仰天するかもしれないが、その時はその時だ。
どれだけ眠ったのか。
俺は、人の気配で目が覚めた。
誰かが近くにいて、こちらを伺っている。
バイクのカバー越しだが、誰かの存在が感じられた。
警察や近所の住民だったら面倒だ。説明くらいしなければなるまい。
俺は、バイクのカバーから顔を出した。
女がいた。
俺の頭のすぐ上に立ち、体を少し降り曲げて、無表情にこちらを見つめていた。
長い髪が、服や顔にからみつくように乱れていた。
血まみれだった。
血で濡れた顔の中に、大きく開いた目が光っていた。
白い服が、血や泥で汚れていた。
それ以上、見ている余裕はなかった。
ものすごい勢いで心臓が脈打っている。目が一気に醒めていくのがわかる。
気のせいだ。気のせいだよな。疲れてるんだよ。
俺はそう思った。
でも、カバーを再び開けて、外を見る気にはなれなかった。カバーの外には、
あいかわらず何かの存在が感じられた。
今、外に出たらあれがいる。
そのまま、まんじりともせずに過ごした。
どれくらい経ったのか。
いつしか、鳥の声が聞こえてきた。それでも俺は、隙間から夜明けの光が射し込んでくくるまで、
カバーの中から動けなかった。
しばらくして、俺はそのアパートを引き払った。
その夜のことは、疲れて幻を見たんだろう、と思っていた。
数年後。
俺は東京の怪談を扱った本を立ち読みしていた。
ふと気が向いて索引を見ると、仙台坂の項目があった。
俺がページを繰ると、
「交通事故に逢った、母子の幽霊が出る」
と、ごく簡略に書かれていた。
俺の体から、冷や汗が吹き出した。
あの夜の情景が、一気に甦った。
そうだった。
あの女の胸元には、体を埋めるように抱かれた、小さな女の子がいた。
…あれは、幻ではなかったのか。
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